織田信長の正室 ”濃姫” には、輿入れしたころの有名なエピソードがふたつあります。
ひとつは、婚礼のため尾張におもむくときの、父・斉藤道三との会話です。
道三は、一振りの懐剣を娘にさしだしながら言いました。
「そなたが嫁ぐ男は、うつけと言われている。もし信長がまことのうつけであれば、この刀でかの男を刺せ」
懐剣をうけとった濃姫は、とっさに切りかえします。
「この刀は、父上を刺す刃となるやもしれませぬ」
道三は一瞬、息を呑んだかもしれません。しかし、娘の覚悟に満足したのでしょう。
「よくぞ申した。そこれでこそマムシの娘じゃ」
そう言って、笑ったとされています。
もうひとつの挿話。
それは、濃姫が信長に嫁いでほどないころのこと。
信長は、毎夜のように寝所をぬけだして明け方までもどりません。
それに気づいた濃姫は不審に思い、ある日夫を問いつめます。
「毎晩のように、どこへ行かれるのでしょう? もしわたくしにお気に召さないところがあるのなら、どうか仰ってくださいませ」
濃姫は、夫が浮気をしているのではないかと疑ったのです。
信長、こたえていわく。
「実は美濃の重臣二人が、こちらに内通している。その者たちが道三殿を殺し、合図の狼煙をあげると申してきた。それゆえ毎夜櫓に上がり、美濃の空をながめている」
新婚早々の妻に向かい、お前の父親が殺される合図を待っていると言ってのけたわけで、ずいぶんな話です。
驚いた濃姫がこのことを父に書状で伝えたため、道三は家老二人を誅殺したことになっています。信長の策略で、労せずして美濃を弱体化させることに成功したというストーリィです。
これらのエピソードはまず作り話でしょうが、この当時の織田家と斉藤家の関係、そこにおかれた濃姫の微妙な立場などをよく表現しています。
信長の父・織田信秀と斉藤道三は、長く敵対関係にありました。
しかし、斉藤家は北に越前・朝倉家、織田家は東に駿河・今川家という強敵をかかえており、どちらも苦しい2正面作戦をしいられてもいたのです。そこで長年の仇敵だった織田・斉藤両家の和解・縁組というウルトラCが成立しました。
その橋渡しの役割を背負って、濃姫は尾張に嫁いだのです。そのとき15歳だったと言われています。
ところで、”濃姫”というのは、本名ではありません。
美濃から来た姫君ということで、尾張でそのように呼ばれたのでしょう。
江戸期の書物には彼女の名を”帰蝶”と記したものがあるのですが、これも信憑性は必ずしも明確ではないようです。
わかっているのは、彼女の生まれです。
父は斉藤道三ですが、母は明智光継という武将の娘、小見の方です。
明智といえば、だれしも明智光秀を思い出すでしょう。
ただ、この有名な方の明智光秀は実は出自がはっきりしないようです。通説では濃姫の従兄妹ということになっていますが、本当のところは明智家の遠縁くらいのあまり身分の高くない家の出だったとも言われます。
濃姫の祖父・明智光継の方は、美濃守護職・土岐家の支族である明智氏のれっきとした嫡流です。
斉藤家、明智家、織田家。これが、濃姫の”さとかた”であり、婚家なのです。
意外に見過ごされがちな明智家とのかかわりに、この不思議な女性の謎がかくされているように思えてなりません。
織田信長をめぐる物語の多くは、江戸時代に創作され、伝説化されたようです。
そのなかで、信長の正室・濃姫の消息がはっきりしない一因も、あるいはここにあるのかもしれません。
”明智”という名が、はばかられたのではないでしょうか?
それかあらぬか、濃姫は奇妙な魅力をはなつ隠れたヒロインとなりました。
その生涯がほとんど不明であるにもかかわらず、悲劇的な香りがつきまとうのです。
史料の少なさは、ほとんど邪馬台国の女王・卑弥呼なみですが、彼女をとりまく歴史的な背景や人間関係については詳細なデータがあるので、そこに”推理する”愉しみも生まれるのです。
”ミステリアス”というのも、人に魅力をそえる要素です。
濃姫を主人公としてあつかった小説は、ほとんどありません。
わたしの知るかぎりでは、これから紹介する、阿井景子『濃姫孤愁』が唯一の作品です。
人柄も容貌もまったくわからず、いつごろ死んだのかさえ不明な女性です。思いきって想像をまじえなければ描きようがないため、むずかしいのでしょう。
阿井景子は小説の前半で、信長が毎夜寝所をぬけだし高櫓にのぼったエピソードを、巧みにふくらませています。信長のもとで濃姫のおかれた微妙な立場を、効果的に描写する素材としているのです。
そのままでは素朴すぎるエピソードですが、小説の中ではさすがに斉藤道三も尾張の若造の策略にうかうかのせられて、重臣を処刑したりはしません。また信長の意図もそんなところにはなく、敵国から嫁いできた濃姫の心底をたしかめるための駆け引きとして描かれているのです。
このエピソードによって作者が表現したのは、信長と濃姫がたがいに向け合う猜疑心、濃姫の心に交錯する夫への愛と怖れ、父・道三への憧憬、英雄として人に知られる以前の”尾張のうつけ”と呼ばれた若き信長、そのリアルな実像などです。
そして小説の後半で、作者は濃姫を作品化する上での難関にいどみます。
それは父・道三死後の、濃姫の消息です。
正室の地位をたもち、長く信長に添いとげたのか。利用価値を失い、非情に離縁されたのか。出家し、みずから身を引いたのか。病死したのか。
史料から結論づけることが困難なこの問題に一応の答えを用意しなければ、物語がつくれないのです。
阿井景子の描いた濃姫が、どこでどのような死を迎えるのか、あえて書かないことにしておきます。
ただ、ひとつの解釈として、「そんなこともあったかもしれないな」と思わせるラストシーンに仕上がっているように思います。
あとがきで作者は、斉藤義竜に滅ぼされて廃城となった明智氏ゆかりの長山城をめぐる、その後のエピソードを紹介しています。作者がこの小説を着想するにあたり、インスパイアされた小さな”史実”がわかる気がしました。
『濃姫孤愁』は、少し地味ではありますが、もっと知られてよい秀作だと思います。
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