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あまくさ惣一郎

Author:あまくさ惣一郎


 平将門の生涯を追うと、平安時代中葉〜後半期の関東地方が、深刻なアナーキズムにつつまれていたことがわかります。東北の蝦夷との強いられた戦争。都の権門や国司たちによる過酷な搾取。
 関東の武士や民衆は、みずから汗を流して開拓した農地を守るため、立ち上がりました。それが、将門をリーダーとする大反乱です。
 将門は「新皇」と名乗り、「関東独立王国」を建設しようとしましたが、この歴史上初めての壮大な実験は、あえなくついえました。彼らの政権構想が、あまりに未熟だったからです。
 将門と坂東武者たちの見果てぬ夢。それが実現したのは、2世紀あまりのちのこと。源頼朝の登場まで待たなければなりませんでした。
 鎌倉幕府成立の本質は、武士による革命であり、働く者を社会の中心にすえる「世直し」とも言えるものでした。


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26 今川義元

 駿河守護職・今川氏の第9代目当主。
 永正16(1519)年生まれ。永禄3(1560)年5月敗死。享年42才。

 今川義元の名は、戦国時代の駿河(静岡県)を治めた守護大名の大物として有名です。
 ただし何をもって有名かと言うと、本人にとっては、はなはだ不名誉なものでした。
 言わずと知れた桶狭間の戦いで、織田信長の奇襲を受けて敗死した人物としてのみよく知られているのです。
 信長の引き立て役として、これまでに小説やドラマや映画に何度登場したかわかりません。

 通説の今川義元。それを総合して、もっともコミカルに描写すると、以下のような感じです。

 雄大な勢力は、生まれた今川家が室町時代有数の名家だったゆえ。
 家の力を自らの実力と過信し、公家かぶれでお歯黒をしていた軟弱大名。
 実力不相応の天下を夢見て、京をめざして大軍を出動させる。しかし、足が短かったため(!)馬に乗れず、やむなく輿にのって西をめざしたので進軍速度が極端に遅かったとか。そのため織田信長に所在を補足され、桶狭間の奇襲攻撃を招く。
 また桶狭間では、緒戦の大勝利に油断して、酒宴に興じていたところを襲われたとされています。

 対する信長の一般的なイメージは、果断、迅速、実力主義、権威を嘲笑う革命児、乗馬の名手、情報収集の名人。

 こう書くと、俗説の信長と義元は何から何まで正反対。つまり、通説の今川義元像は、織田信長の英雄性を際立たせるためにつくられた虚像だったことがわかります。

 では、今川義元という人物の実像はどうだったのでしょう?
 最初に身も蓋もないことを書いてしまうと、彼の実像はよくわからないのです。人となりを伝える史料があまり残されていないからです(同時代人の朝倉教景が書き残した、手本とすべき戦国大名は、今川義元・武田信玄・上杉謙信・毛利元就・織田信長とする証言はあります)。

 ただ、義元が当主をつとめた時期の今川家の領国統治には、見るべき点が多いようです。

 義元の特徴のひとつとして、まず文化・学問にはかなり造詣が深かったのではないかと思います。
 義元の父は、今川家第7代当主・今川氏親。母は京の公家、中御門宣胤の娘です。幼名を万菊丸といい、出家して承芳と称しました。義元が修行僧として都で暮らした経歴をもつことは、あまり知られていないのでは。彼が当時としては最高レベルの教養を身につけていたことは、まちがいありません。
 そういう人物ですから、駿河今川家当主となってからも京の知識人と交流し、文化・芸術・学問を奨励したのです。
 このような一面が、公家かぶれでお歯黒をした軟弱大名というイメージにつながったのでしょう。

 政治・経済の面では、

(1)検地の実施、
(2)軍事組織の革新(寄親・寄子制度)、
(3)法律の整備(父の制定した分国法『今川仮名目録』を補強し、『仮名目録追加』を定めた)、
(4)金山開発の推進と技術革新、

 などなど。多くの業績を残しています。

 ただ、先に私が今川義元の実像はわからないと書いたのは、これらのさまざまな業績が義元本人の手腕によるものなのかどうか、イマイチ史実から読み取れないからです。
 今川家の当主は代々優秀な人物を輩出していますし、小説などでよく持ち上げられる雪斎というすぐれたスタッフもいました。

 たとえば法律の整備について見ると、『今川仮名目録』は先述のように義元の父・今川氏親の制定したものです。
 これは主として今川領内の土地の権利などについての基準を示したものですが、戦国大名による「地方分権」を確立した重要な試みであり、武田氏の『甲州法度之次第』などにも影響を与えています。

 『仮名目録追加』の制定は義元の重要な業績として評価できますが、このようにもともとは彼の父である氏親の仕事です。
 そして、今川氏親という人物は、別の機会にふれようと思いますが、有名な北条早雲の影響を受けているのです。

 北条早雲→今川氏親。この流れを受けついだのは誰でしょう?
 氏親が病で死んだ時、義元はまだ幼く、家督は兄の氏輝がついでいます。
 その氏輝も第8代当主となった時は14才と若かったため、氏親の未亡人である寿桂尼が後見人となって実際の政務をとっていたと言われています。

 氏輝は病弱で早死にしたため、紆余曲折のすえ仏門に入っていた義元が還俗して9代目の当主となりました。

 北条早雲のDNAは、今川家中興の祖・氏親→才女・寿桂尼→今川義元と受けつがれたのです。

 しかし戦国今川家は、悲運の家系でもありました。

 代々の当主がことごとく、戦死したり、後継者が不安定なままに病没したりしているのです。
 そのため、代替わりごとに混乱が発生しました。
 戦国屈指の名門で、統治もすぐれ、ゆるぎない実力も兼ね備えながら、今川家の歴史は平坦ではありませんでした。
 数々の苦難をのりこえながら、今川義元は一族の絶頂期を築きつつあるように見えました。

 ところが、運命の永禄3年5月19日、栄光の歴史は突如、断ち切られたのです。

 その日、織田信長の疾風のような軍勢が桶狭間に襲いかかりました。

 日本の歴史は、新たなステージに進んだのです。


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