これから何回かにわたって、歴史の中の「戦争」について考えてみたいと思います。
はじめに、「日本最古の戦死者」を紹介します。
福岡県志摩町新町遺跡は、紀元前4世紀ごろの遺跡とみられます。
弥生時代のはじめ、朝鮮半島から北九州にわたってきた人々がいました。
新町遺跡は、そういう人々がつくった「コメ作りのムラ」のひとつです。
この遺跡で見つかった24号木棺墓には、40代の男性が埋葬されていました。
この男性の左の太ももに、朝鮮半島系の石のヤジリの折れた切っ先が突き刺さっていたのです。
こういう場合、ヤジリの刺さったあたりの骨の状態を調べると、その人間が負傷した後も長く生きていたのか、すぐに死亡したのかがわかります。
この「24号墓人骨」の場合は、即死でした。
太ももの矢傷が、それほどの致命傷になったとは思えません。
おそらく足に矢を射込まれ、うずくまったところをトドメをさされたのです。
この「戦死者」の墓には、もうひとつ奇妙なことがありました。
遺体の下に小さな穴が掘り込まれ、10代前半の少年の歯が埋まっていたのです。
さて。ちょっと怖いことを書きます。
人間の骨は有機物をふくんでいます。酸性の強い日本の土壌の中では有機物は時間がたつと腐って土になってしまいます。
だから、古い時代の墓を発掘しても人骨は見つからず、ただ土がつまっているだけということが多いのは、遺跡の調査にかかわったことのある人なら誰でもよく知っています。
本当は、ただの土ではなくて、かつては遺体だった土なのです。
ところで全身の骨の中で比較的腐りにくいところは「歯」らしく、骨はほとんど残っていないのに歯だけ残っているというケースも、ときおり見られます。
少年の骨は大人よりも有機物の割合が多いので、40代の戦士の骨よりも、はやく腐ったのかもしれません。そして、歯だけが残りました。
その小さな穴は、いくら子供でも全身が入るほどの大きさはありませんでした。
ちょうど、人の頭が入るくらいの大きさだったのです。
このかなりエキセントリックな埋葬状況について、研究者は次のように想像しています。
いくさによって命を落とした仲間を弔うにあたり、彼らは敵方の少年をさらい、その首を獲って遺体と共に埋めたのです。
少年は、復讐の犠牲となって殺害されたのです。
弥生人と言えば、稲作文化。
コメづくりは縄文人も知っていたことは、最近の研究で明らかになってきました。
しかし、北九州を拠点として、日本列島に本格的な稲作文化を根付かせたのは、朝鮮半島からの渡来人だったという定説は、大筋では今も崩れてはいません。
それが弥生時代のはじまりです。
そして、そのころの遺跡からは「戦死者」と思われる遺体がかなり発見されています。
その中には、首のない遺体、または首だけが埋葬された遺体が少なからずみられるそうです。
敵の首を獲るという行為は、2000年以上前に始まっていたようです。
縄文時代にも部族間の抗争はあったと思われますが、多くの研究者は、それを戦争とは呼びません。
しかし、弥生時代の戦いは、戦争と呼びます。
なぜそう言えるのか詳しく分析すると話がややこしくなるのですが、簡単に要点を書くと、弥生人の抗争には水田の開発・経営をめぐっての「水利権」の争いといった、政治的な衝突要因があったものと思われるからです。
今よりはるかに人口の少なかった時代、狩猟民には「土地争い」は無縁です。
猟場は、移動できるからです。
畑や田んぼは持ち運べませんから、深刻な縄張り争いにつながることがあったでしょう。
また、水田の開発・運営には灌漑などが必要ですから、合理的な集団化がなければできません。そこにも、政治的な人間集団の発生をうながす要因があったと考えられます。
しかし、もうひとつ、忘れてはいけない重要な視点があります。
日本列島の弥生人が、素朴な水田作りにいそしんでいたころ、海の向こうの大陸には、すでに巨大文明が存在していました。
新町遺跡24号墓の戦死者が埋葬されていたころ、中国は「春秋戦国時代」でした。
ここで中国史にまで踏み込むのは面倒くさいのでハショリますが(笑)、要するに当時、世界最高レベルの文化と技術を誇り、それとともに、政治、陰謀、悪逆、権謀術数、覇権主義、戦争・・・・・ 偉大な中華文明にはなんでもありました。
日本列島の戦争は自生した側面もありますが、すでに完成した形で中国大陸・朝鮮半島から持ち込まれてしまった可能性も否定できないのです。
戦争は、コメとともに海の向こうからもたらされたのかもしれません。
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